昔からそうなのです。
中1の頃は地元のこどもミュージカル出演者として90人の女子たちの中に男子1人で参加。また中学・高校共にそれぞれ生徒会長を務め送辞も答辞も読みました。学校に1枠しかない生徒会長として名乗りを挙げ学校祭だ挨拶運動だなんだと奔走する日々でした。ちなみに学級委員はクラスの分だけ枠があったのであまり魅力を感じず一度もなりませんでした。(自慢のように見えますが他意はありません)
大学に入学してからはまず名前を覚えてもらわなければ始まらないと思い、カチンコを模した名刺を500枚刷ってあらゆる映画イベントや撮影現場に潜り込み(入学したてなので当然実績は何もありませんでしたが)とにかく自分を売り込みました。その結果、何人かの方からプロの映画現場の話を頂けることもありました。友人に羨ましがられたので名刺を作ってみたらと言ったのですがその友人はずっと横でみているだけで名刺を作ることはありませんでした。こちとら何もせずぼた餅を手に入れている訳ではないのに…・・・。それはさておき、ただ椅子に座っているだけでは得られないチャンスが東京にはたくさん散らばっているということを思い知らされ胸がときめきました。
しかしもちろんうまくいかないこともありました。映画の学校に入ったのだから大学の撮影実習でも何とか監督権をGETしたかったのですが、結局4年間で一度も通ることはなく卒業制作も一次予選すら受かりませんでした。最後の卒業制作の選考に落ちた時はさすがにショックが大きく家へ帰り悔し涙を流しました。正直なところ、なぜあいつが!と思うこともたくさんありましたが腐ることだけは絶対に嫌ですし腐っても無意味だと思っていたので、まずは自分の無力さを自分自身で認めることから始めました。
とはいえ監督に選ばれないからといってただおとなしく黙って時間が過ぎるのを待つのは酷だったので、同期の仲間や後輩と共に『SNOWGIRL』と『弥生の虹』という自主制作映画を故郷敦賀で2本撮り、その後東京上映と敦賀上映を行いました。日本映画大学で私が得たものは、卒業制作映画(ドラマ)を撮れるのは3人だけれども地方で映画を2本撮って上映までこぎつけた学生は自分しかいないというある意味自己満足にも思える自負だけだと言っても過言ではありません。この作品制作は私の学生生活に本当に大きな意義をもたらしてくれました。無名監督の作品に自ら協賛してくださった方々には私は本当に感謝しなければならないと日々思います。
少し話題がそれました。
さて私は昨年春から晴れて(?)社会人となったのですが、就活も一切せずどこの会社にも就職しませんでした。フリーランスというと聞こえは良いですが、要はフリーターです。うちの親はよく地元で『大裕(私)はどこの映画会社に入ったの?』とよく聞かれるそうです(笑) 何と答えているのか分かりませんがそんなのは知ったこっちゃありません。一応5月18日に『DYCエンターテインメント』という個人事業を開業し僅かばかりの映像の仕事もしているので自営業を名乗ることもできるのですが、現時点ではアルバイトが占める割合の方が大きいのが事実です。徐々にこの比率を映像寄りにしていきたいと考え、水面下で動き出しています。
大学を卒業してからは同期の仲間とあまり会う機会がないのですが、みんなどこで何をしているのでしょうか。制作会社に入った人もいればフリーで現場に出ている人も。また地元に帰った人、結婚した人、それ以外の道を歩んでいる人などなど。人のことを気にしている場合ではないのですが、時々大学の入学式で言われた言葉を思い出します。『将来映像業界で残って行けるのは君たちの10分の1だ』 父兄たちのどよめきを後目に、絶対に自分は10分の1になってみせる!と、着慣れないスーツを身にまとい心の中で誓った記憶があります。
この映画監督の夢も、もしかすると人と同じことをするのが嫌だという思いの果てに到達したものなのかもしれません。映画監督を本気で目指している人は地元ではまずいないでしょう。福井県内にはどれだけいるか……ちょっとわかりませんが、それでも東京にはライバルがたくさんいます。彼らがやっていることをただ真似するのではなく、私は私なりにこの映画業界での生き抜き方を見出していきたいと思います。
久しぶりに思いのたけを書き連ねましたが、いかがだったでしょうか。
何も考えずにただプー太郎をやっているわけではありません。
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